素人ヤドリバエ屋の庵室
a hermitage of an amateur Tachinidist
1.ヤドリバエ科について
ヤドリバエとは,正確に言えば,
昆虫綱双翅目短角亜目環縫短角群額嚢節有弁翅類ヒツジバエ上科ヤドリバエ科 です.
双翅目(ハエ)のなかで最大の分類群の一つであり,
2020年時点で,世界中から8,592種もの既知種が確認されています (O’Hara et al., 2020).
ヤドリバエとは 宿る蠅…
他の生物に寄生して,その宿主の体内を自らの宿つまり庵室とするハエたちのことです.
芋虫や毛虫を飼育した経験のある人はわかるでしょう.途中で芋虫が死んでしまって,代わりになんだか小豆みたいなものが転がっていて,暫くするとそこからわけのわからないハエが出てくる.
その正体が, まさにヤドリバエです.
ヤドリバエ科のほとんどは,捕食寄生性を有し,幼虫期の間,蝶や蛾の幼虫やその他 様々な昆虫の身体を蝕み,栄養を得ます.ヤドリバエというと,芋虫や毛虫に寄生するイメージがあるかもしれませんが,Meigenia, Istocheta, Anthomyiopsisみたいに甲虫に寄生するものもいれば,PhasiaやEctophasiaみたいにカメムシに寄生するものもいます.PhorocerosomaやExoristaなどにはバッタやカマキリに寄生する種もいます.
寄生のジェネラリストも居て,たとえば東京でよく見られる Bessa parallelaは,甲虫・蛾・ハチに寄生することが知られています.3つもの目の昆虫にわたって寄生可能な種は珍しいと思います.「寄生できる」ということは,「宿主の免疫を巧妙に避けることができている」ということ.甲虫・蛾・ハチでは免疫系もある程度違うのではないかと思ってしまいますが,どうやってそれら全て避けられるようになっているのか.恐ろしいですね.
(注) ハエの中でヤドリバエ科だけが寄生性をもつわけではないことに注意が必要です.ニクバエ科,クロバエ科,イエバエ科,ヤスデヤドリバエ科,...etc. にも寄生性のものがいますね.無額嚢節だとノミバエ科とか…
さて,そんなヤドリバエですが,外見は, 家の中にしばしば出没する大型蠅類(イエバエ科やニクバエ科)などと比較的似ています.しかし,腹部の剛毛が針状に鋭く長いことが多いのが特徴的です. この特徴から,ハリバエとも呼ばれることがあります.
※例外ももちろんあり,剛毛の目立たないヤドリバエもいます,とくに Phasiinae亜科に多い印象です.
体長は,ハエにしてはやや大型の種が多いですが,中には2 - 3mm程の小型種もいます.体色も,灰色の種から 緑色の金属光沢を持った種まで非常に多様です.
ニクバエはヤドリバエと間違えられがちですが,ニクバエは胸部に3本の明瞭な黒い縦線があったり腹部が市松模様を呈したりすることが多いので,慣れればすぐに見分けがつきます.もちろんややこしい見た目の種類もいないわけではないのですが.

↑ Tachina amurensis
2. ヤドリバエ科の同定について
ヤドリバエ科の分類学的研究は,他の生物と比べ,著しく遅れています.
その理由として,次の四つが考えられます.
①ヤドリバエというマイナーな昆虫に興味を持つ人が極めて少ないこと.
②同定する上で,極めて高度な専門的知識を要すること.
③同定作業が,地道で苦労を要するものであること.
④先行研究が極めて少ないこと.
まず,①について.ヤドリバエ好きがあまりにマニアックすぎるという問題があります(笑).そもそも,双翅目が好きな人自体とても少ない.
昆虫の中で特に種数が多い分類群は5つあります.具体的に列挙すると,a. 鞘翅目(甲虫) b. 鱗翅目(蝶・蛾) c. 膜翅目(ハチ・アリ) d. 半翅目(カメムシ・セミなど) e. 双翅目(ハエ・カなど) です.この5つの中で圧倒的に人気度が低いのが双翅目なのは言うまでも無いでしょう.双翅目を研究しようという人はもちろん,その中でもヤドリバエを研究しようと思う人は希少ですね.これが, この分野の研究が進まない最大の理由とも言えるでしょう.
次に,②及び③について.蝶や大型甲虫,トンボなどであれば,体色・模様・体の概形・体長を見ることで容易に種類を判別できるケースが多いです.しかし,ヤドリバエを同定する場合,そうはいきません.これらの形質を頼りにすることは滅多にできません.体色や模様などの形質では判別できないほど似通った種類が多く存在するためです,そして同種内でも個体間の差異がそれなりに大きいためです.
では,ヤドリバエの場合,どのような形質を用いて同定するんでしょうか.答えは,身体に生えている “剛毛”の本数・位置・長さ・角度や, 交尾器の形状です.じつは,驚くべきことに,ヤドリバエの身体に生えている “剛毛”には,それぞれ名前がついています.

↑横顔の部位のみ示した.これらは,ヤドリバエの形態用語のごく一部にすぎない...
このような専門的な形態用語を熟知している必要がある.ヤドリバエの同定が大変なゆえんです.そして,これらの用語はしばしば,時代によって同じ部位に対して別の単語が使われていたり,それぞれの論文で少しづつ違った略語として出てきたり.大変ですね.
さて,同定の際は,双眼実体顕微鏡を用い,このような“剛毛”の様子を一つ一つ細かく精査しなければならません.ただ,剛毛は,取れたり折れたりしてしまったり,変異のせいで本来よりも毛の本数が増えてしまっていたりというケースもあり,そういう場合,時によっては,同定が大幅に難航します.
剛毛を見ただけでは,変異の可能性もあるし,未記載種や隠蔽種のことも考慮すると,厳密には種を確定しづらい.そこで交尾器の形態を参考にします.
交尾器は種によって少しづつ違う.基本的に雄交尾器に明確な特徴が現れることが多いので,普段,雄交尾器をみて判断します.雄交尾器というのは,尾毛(cercus)・surstylus・挿入器(phallus)などから成りますね.一方,あまり論文には載っていないことが多いですが,雌生殖器にも種間でわずかな違いが見られ,同定の鍵となりうることがある.雌生殖器とは産卵管(ovipositor)などですね.
交尾器を観察する際は,生殖節をKOH(代用として乳酸を使用可)で溶かし,その後グリセリン内で解剖します.かなり大変な作業です.慎重にやっても,自分のような素人は,すぐ傷をつけてしまったり破損してしまったりします.まだまだ鍛錬が必要なようです.

↑ノコギリハリバエ Compsilura concinnata (Meigen) の雄交尾器
これを聞くと,雄交尾器を見さえすれば簡単に同定できるということ?と思う方もいるかもしれませんが,全くそんなことはありません.雄交尾器を見ればたしかに,より厳密な同定ができます.しかし,それが正しいのかどうかなんて誰にもわからないのです(DNA解析とかしない限り).
交尾器を見て文献の図と比較しても結局わからないことも多々.なぜなら,別種でも交尾器の図がまるでそっくりなことも多いのです.こればかりは実物を見て比較しないとわからない,というか見てもわからないのかもしれない.それに加え,交尾器はその保管状態・見る角度などにより見た目が大きく変わり得ます.それも考慮しないといけませんので,極めて難しいのです.
ところで,ヤドリバエの同定は非常に厳密です.それもそのはず,よく似た種類ばかりですから,厳密にしないと区別できないのです.例えば, 「〇〇剛毛の生えている角度が水平に対して30°〜60°の間であるかどうか」とか「頬の高さが複眼の高さの0.25-0.27倍かどうか」とか.20世紀以降の論文であれば,1つの種の記載文だけで大量の数値が出てきます.それを一つ一つ計測して同定を確認していくのは極めて地道です. その数値も,その人の計測の仕方によって若干変わってくる場合があるので,これまた困りますね.
さらに,ヤドリバエは種数が非常に多いですから,まず属を判別するだけでも,549個のcoupletを持つ検索表を用いて同定を行います.慣れていない人がこれを行うと,それだけで何時間も要することになるでしょう(汗).検索表だって万能で完璧に正確でない場合も多いですし,それも悩みの種です.
加えて, 日本語で書かれた図鑑や文献はほぼ皆無なので, ほとんどは英語, ときどき中国語,ロシア語やドイツ語の学術論文や書籍を読み漁ることになります.イタリア語やフランス語の文献を参考にすることもありますね.今の時代,翻訳ツールやChat GPTに翻訳してもらうこともできるので随分便利です.が,専門用語等はそれらでもうまく翻訳されません.英語はもちろん普通に読めるべきですし,それとは別に,ロシア語・ドイツ語も少々知識として持っているといいでしょう.(私は大学の第二外国語でロシア語を選んだので,ロシア語の知識は手に入れました.今,ドイツ語もすこし勉強しています.)



↑中国語の文献
↑ドイツ語の文献
↑ロシア語の文献
そのため,ヤドリバエの分類を行うには,なにより地道な作業を厭わず続ける忍耐力が必要です.相当“ヤドリバエ愛”が強くなければ続けられないことです.
最後に,④について.先行研究が少ない中で,同定を行うことは,まさに暗中模索.まだまだ未記載種が膨大にいることが予想されるため,自分の手元にある標本が既知種であるという保証はありません.その個体が既知種と同一と判断して良いものなのか,それともあらゆる既知種とも異なるのかを判断するのは極めて難しいことです.究極的には,100%正確な同定というのは無理なのかもしれません.いくら正しい同定をしたと思っていても,後々の研究で,既知種とものすごく似た新種だったと明かされる可能性は捨てきれない.
これらの理由から,ヤドリバエの同定ができる人は,専門家とアマチュアを合わせて日本国内では,せいぜい30人くらいでしょうか(勝手な推測ですみません).専門家としてヤドリバエの分類を研究しておられるのは,国内では嶌洪先生と舘卓司先生のたった2名です.(私のような素人がこんなサイト作ってつくづく恐縮なところです…)
全世界を見ても,研究者は比較的数が少ないでしょう.ただ,ヤドリバエの研究が遅れているという現状は逆に,ヤドリバエ研究の魅力と読み替えられます.研究が進んでいないため,上にも記した通り,未記載種が山ほどいる!と予想されるのです.自分で新種を記載するのも全然夢ではありません.実際,自分も,未記載種と思われる個体の標本を手元に複数持っています.
ところで,ヤドリバエの分類なんて調べる意義は有るのか?と言われそうです.正直,私がヤドリバエの研究をしたいのは,自分がヤドリバエ好きで,意義の有無以前に純粋にヤドリバエの分類が楽しいからというのが本音です.
ただ,この研究に大いなる意義があるのは事実でしょう.嶌・篠永(2014)から引用すると,
『ヤドリバエは,一部をのぞきそのほとんどが幼虫時代を他の昆虫類の内部寄生者として成長する捕食寄生者であり,地域生物群集の調節に大きな役割をはたしているものと考えられる.またそのために・ヤドリバエ科は,寄主となる地域昆虫群集の多様度を知るうえでの大きな目安ともなりうる.』
ということです.つまり,ヤドリバエはある地域の生物多様性の指標生物と言えるのです.
ヤドリバエ(Tachinidae: 愛称 たきにぃ)...
とっても多様性が豊富な昆虫...とっても同定が難しい昆虫...
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参考文献)
嶌 洪・篠永哲, 2014. 皇居のヤドリバエ相. 国立科博専報(50): 447-457
O’Hara JE, Henderson SJ, Wood DM. 2020. Preliminary checklist of the Tachinidae (Diptera). Version. 2.1 [PDF document].